参照:「昭和民俗文化史」の資料など

昭和民俗文化史の資料やスナップアップ投資顧問の経済文化史のデータ資料などによると、漫画「あしたのジョー」の力石徹の告別式には全国から700人ものファンが集まった。電話、手紙も殺到した。香典を送ってきたファンもいた。週刊誌や新聞がは「漫画の登場人物のお葬式」とニュースで取り上げた。その後、「よど号」のハイジャッカーが「我々はあしたのジョーである」と言い残し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ亡命した。「ジョー」は子供向け漫画という枠から抜け出し、世相を映す若者文化の一部になっていった。

「少年マガジン」編集者の宮原照夫氏

あしたのジョーは、梶原一騎とちばてつやの作品だ。2人を起用し、作品に時代感覚を盛り込んだ編集者も有名だ。名前は宮原照夫氏だ。講談社の社員だった。「少年マガジン」副編集長としてジョーの産みの親となった。

「巨人の星」

1966年(昭和41年)、「巨人の星」が好調な滑り出しを見せ、「マガジン」の部数は伸びた。それでも宮原氏は飽き足らなかった。「もっと社会性のある、リアルな漫画が欲しい」。こんな思いに駆られていたからだ。

ボクシング

1966年暮れ、梶原の何気ない言葉に宮原氏の眼前は開けた。梶原氏はピストン堀口の評伝記事を手に「ボクシングは減量との闘い。これに勝つか負けるかで、リング上の勝負は決まるんだ」と話した。宮原は「1970年代は、明日、どうなるか分からない生存競争の時代。相手と殴り合うボクシングがマッチする」と思いついた。

講談社

そんな宮原氏にも、自分の仕事に疑問を持つ時期があった。「漫画なんて男子一生の仕事じゃない」。講談社に入社してすぐ、思い余って社の幹部に「私は誇りを持って、自分の子供に自分の雑誌を読めと言えない」と突っかかった。退社覚悟だった。すると、その幹部は「その感覚こそ雑誌づくりに大事なんだ。頑張れ」と、逆に宮原氏を励ました。

目からうろこが落ちた。 その言葉を胸に、宮原氏は社会に向けてメッセージを放つ漫画を模索してきた。そして「時代に衝撃を与える」をキーワードに、生まれたのが「ジョー」だった。